TPPは、トランプ大統領の命令で発効の見込みがなくなった。
アメリカ第一主義を唱えるトランプ氏を盟友だと言い切る安倍首相には哀しくなる。
TPPといえば、甘利氏が担当大臣だった。
実は甘利氏は原発再稼働についても、言いたい放題に安倍同様ええかげんなことを言っていた。

口利きの見返りとして企業から献金を受け取ったとされる元TPP担当大臣の甘利氏はいまどうなっているのだろう。甘利氏は第1次安倍内閣で経産相として原発を推進していた。原発事故後の2011年6月、甘利氏はテレビ東京の「週刊ニュース通信」に出演したが、「原発事故は自公政権時代の安全対策に問題があったのでは?」との田勢キャスターの問いかけに答えに窮した。そのとき甘利氏はなんとその場から逃げてしまい、「この映像は放送するな」と要求。カメラは主のいなくなった椅子を映していた。

 その後、甘利氏は放送を続けたテレビ東京を名誉毀損で訴えたが、東京地裁は「不適切な質問方法があったとは認められない」とする判決を下した。その後、甘利氏は浜岡原発が停止した際、「このまま原発が止まっていくと、日本経済は壊滅する」と言った。そして全原発が停止した。果たして日本経済は壊滅したのか? 自民党の政治家のいうことは無責任極まりないのだ。
もっといえば、自民党支持者がこんな政治家を非難はおろか擁護するのだから驚きだ。 自助努力がないのがじつに悲しい。   

同じく「原発は安全」と言い続け、挙句の果てに「プルトニウムは飲んでも大丈夫」と断言して原発の安全性を語っていたのは東大・大橋弘忠教授だった。福島原発事故後にこの放言が問題となると、同じ東大の児玉龍彦教授が「プルトニウムを飲んでも大丈夫などと言った者がいるが、とんでもない!」と憤った。

 この大橋氏は2012年、自身のウェブサイトにこう書いている・・・・「プルトニウムは水に溶けにくいので、仮に人体に入っても外に出て行く、と述べたのが、それならプルトニウムは飲めるのか、飲んでみろ、となっているらしい。文脈を考えれば分かるのに、今時小学生でもこんな議論はしないだろう」 しかし、この発言のあった原発公開討論会の模様は動画で世界中の人が見ることができるので真実は明白になっている。
 
 実はこの文章、今は跡形もなく消えている。動画の存在が知れると削除されたのだ。いま大橋研究室のサイトを見ると、研究内容は経済物理・金融情報学、ソーシャルメディアの分析などとあり、原子力とは関係がないようになっている。もともとが東京電力の社員だったというだけで専門家でもないのに原発を推進していたのだ。こういう人を生っ粋の御用学者というのだろう、何もわからないはずの原発を安全だと言いふらしてきたのだ。その大橋氏はその後、北陸電力の原子力安全信頼会議のメンバーになった。

そのことについて北陸電力は、大橋氏を専門家とは言わずに「社外有識者の多角的なご意見をいただくためです」としている。原発のエセ専門家から今度は有識者となったのだ(笑)。福島の人々に災厄を押しつけたその舌の乾かないうちに、性懲りもなく原発の甘い蜜にたかって生きる、まさに超A級戦犯だ。

甘利氏も大橋氏も一直線に安倍首相に繋がっている。
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きょうの晩御飯は男の料理で仕入れた献立を参考にわたしがこしらえた。
男の料理教室では、調味料はきちんと測っているが(測ることが一番大事だと!)家ではアバウトでやっている。
といっても滅茶苦茶しているわけではない。いわゆる目分量で測っているということです(笑)

わたしの市では、行政改革の名のもと、放課後の学童保育を指定管理者に委託しようと
しています。指定管理者とは株式会社だから市の行政管理事項を会社の金儲けに供することになりますよね。
サ-ビスの質の向上になるはずがない、まさに市の行うべきことを無責任にも丸投げするということだ。
市の業務は株式会社のように利益をあげるものではない、市民が安心して暮らせるようにすることだろう。
ましてや、国が弱者切り捨てにやっきになっている現状では、市は市民を守る視点に立つべきだ。

ブログを書いていると、ときとしてトラブルに直面することがある。
わたしも、あるブログにコメントを書いたら、異議がでて炎上したことがある。
2000年になるとPCが異常動作をするといわれた頃のことだ。
炎上に気付いた管理者さんから、書き込みをしないようにという注意が発せられて
最後はスレ立てそのものもすべてが消去された。
早い話が・・・ブログでの揉め事は円満に解決できないものだと思ったほうがよい。
人間はときとして、坊主憎けりゃ袈裟までということになる。
そして、厄介なのは、中立というか、第三者を装った野次馬の存在だ。
多趣味で話題の多い人ならともかく、ブログネタにもめ事が好きな人もいる。
HNという仮面の下で敵意や悪意が増殖するのは目に見えない細菌の世界と同じだ。
揉め事の決着には個人情報を明確に出すことが必要だろう。

もしも炎上覚悟で揉め事を納めようという人がいるとすれば、何か別なこんたんがあると
理解すべきだろう。

今日のニュ-スで福島第一でメルトダウンした核燃料の残骸らしきものが撮影されたとか。

メルトダウンというと地震のあとの原発の爆発のときを思い出す。原発でいったい何が起こっているのか?事故は一体どの程度のものなのか?放射能はどこまで広がったのか?こうした重要な情報がいっこうに出てこなかった。Webに長けたブロガ-からは海外からの情報を発信して注意をうながしてくれる人もいたが、内閣官房長官は「ただちに影響はありません」を繰り返すばかりだった。爆発の映像が流れて、多くの人たちは、これはもしかして放射能がまき散らされたのかもしれないと知りながらも、パニックにもならず、以前と変わらぬ生活を送っているように見えていた。テレビでは原発の専門家が登場はしても最終的には政府の方針を語って、なんら専門的なことを説明しなかった。

そのような経緯のあと、東大の安富歩という先生が人を騙しやすい言い方(言語体系)があるのではないかと感じた。現代日本人と原発との関係は、戦前の日本人と戦争との関係によく似ているということだった。勝ち目のない戦争を続けて、原爆を投下されてもなお戦争をやめることのできなかった戦前の日本と同様の何かがあるのではないか。安富教授はそのように感じ、そこに共通する根本的なことは欺瞞的な言語体系だったということに気が付いた。

安富教授が気づいたのは、福島原発事故の直後に、NHKに出演した同僚でもある関村直人・東大大学院教授の話しぶりだったという。関村教授は不安でテレビにかじりつく視聴者に向かって、実際に起こっていそうなことよりも、ずっと楽観的な「安全」を強調し続けた専門家だった。1号機が爆発したのではないか?という一報にも「排気塔の爆破弁を作動させた可能性がある。」などとそれらしく解説していた。

「過酷事故」が目の前で起こっていても、官僚や学者は原発を安全と印象づける「欺瞞言語」を手放さなかったと安富教授はいう。この話し方は東大で見聞きする独特の話しぶりにそっくりだと思ったらしい。ちなみにこうした「東大話法」とは、東大OBが最も巧みに操るだけではなく、出身大学とは関係なく散見されると。爆発事故を「爆発的事象」と表現してそれを繰り返した官房長官の表現は典型的な東大話法という。「正しくない言葉で、まずだましているのは自分自身。目の前で爆発が起こっている現実を直視できなくなり、正気を疑うようなことも平気でできるようになる。つまりは卑怯者になってしまう。」


「東大話法」にだまされないためには、どうすればいいのか。安冨教授は、「東大話法」には 以下の20の法則があるという。
○規則1:自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
○規則2:自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
○規則3:都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事する。
○規則4:都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
○規則5:どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
○規則6:自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱいに批判する。
○規則7:その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
○規則8:自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル張りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
○規則9:「誤解を恐れずに言えば」と言って嘘をつく。
○規則10: スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を倒喝し、迎合的な態度を取らせる。
○規則11:相手の知識が自分より低いとみたら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
○規則12:自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
○規則13:自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
○規則14:羊頭狗肉。
○規則15:わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
○規則16:わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
○規則17: ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
○規則18:ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
○規則19:全体のバランスを恒に考えて発言する。
○規則20:「もし○○○であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。

日本人は困難な状況下でもパニックにもならず、理性的な行動をとる規範に満ちた民族であるとされているが、単に騙されやすいだけで、真実から隔離されている、ということらしい。嘘も方便とはいうが、いまさらながら安倍首相も隅から隅まで「東大話法」の20の法則を駆使していることは明白だ。

少し政治的な話題。
てか政治的な話は別のところの掲示板に書き込んでいるが、いま工事中になっている。
いま政治的に注目すべきは、首都東京だ。とくに都議選は大きな政治の転換点になりうる。
安倍政権の支持率は、他よりはましだと感じる支持者が多くてなかなか低下しない。
ところが、先の参議院選挙のように、安倍政権対野党市民連合の形になると安倍支持率は
すんごく低下する。
もともと有権者のうちの自民党の得票率は20%なので真実は砂上の楼閣なのだから、参議院選挙の
一人区の結果は当然の姿だと言えるだろう。
東京都政は、自民党員の小池知事だが、外見は自民党の内部分裂に近い状態になっている。
今後の都議会選挙の構図がどうなるのか、安倍政権の弱みが暴露されるかもしれない。

盲目的に自民党安倍政権の政策を支持する人達がいる。
そうした人達が安倍政権を支持する理由は様々である。
ある人は、商業新聞の記事を読むうちに
またある人は、人生のどこかで自民党支持者になって
またある人は、もともと親が自民党支持者だったから
そして、お金持ちになりたいためにという人もいる
中には保守体制が好みだからという人や
また、自民党が一番ましだという人もいる

思想信条は自由だから当然のこと政党支持も自由だから何党を支持しようと
好き勝手だ。大切なことは政治が国家や国民のため政策を行っているかと
いうことだろう。もっと厳密に言えば、国民といえば簡単だが、国民も貧富状況様々である。

盲目的な自民党安倍政権支持者かどうかは、その主張の中身でわかる。
盲目的ということは一種の政治音痴というか、批判があるかどうかだろう。
わたしの知っている自称「右」だという人のなかにも、安倍政権の政策の間違いを糺す人がいる。
またその反対に、まったく安倍政権のやることの全てにイエスという人もいる。
結論からいえば、盲目的な自民党安倍政権支持者は、実は政治音痴だということだ。
保守といえど様々な意見があってしかるべき、「右」といっても様々な歴史的立場がある。
国の政策は是々非々で我意と照らして物申すことが肝要だ。

いま、安倍政権は、自民党と公明党が連合し維新勢力が後押しをしている。
そして野党は野党で共闘を模索している。
安倍政権は、先の参議院選挙の一人区の敗北が驚異だったようで
衆議院でもそうした流れがあると先がないということで野党共闘を野合だとしきりに攻撃している。
自民党と公明党も野合だという認識がないのが不思議だ。

朝三暮四ではないが、ぼちぼちとアベノミクスの失敗が明らかになりつつある。
甘い言葉だけが先行して、内実がないことがはっきりしてきたようだ。
貧富の差がどんどん大きくなり、自分は貧乏ではないと信じていたはずが、
政治の貧困のために、いつのまにか貧乏が近づいてくることになる。

国政も家計と同じだ、富を生み出さないものにお金を使わないことそして断捨離を進めることだ。
さらには、無駄なお金は使わないことだ。

わたしは将来にわたって原発再開に反対ではないが、少なくとも再稼働は福島原発事故の原因と
廃炉処理と住民の現状復帰がなされたうえで、原発事故を想定した稼働条件が技術的計画的に裏付け
されなくてはならないと思う。なので、憶測だがあと100年は難しいだろう。
ましてやリニヤ-鉄道を建設して、その電力が必要だからと原発再稼働をさらに推し進めたりするならば
まさしく亡国の政策といえるだろう。

日本が技術先進国だという証拠を示すためにも、原発はすべて廃棄すべきだ。
これに関しては、右も左もないと思うが、安倍政権のいうがままに支持する人がいるのは残念だ。



古いPCから出てきたものに、歴史上の人物に関するものもたくさんあった。
多くは、歴史をテ-マにしたH.P.からのいただきもの。
そのなかに国際留学生協会のH.P.が出典する新聞掲載の情報で一人の女性の記事があった。

田内千鶴子(たうちちづこ)

市民葬に3万人
 孤児救済に取り組む韓国人男性に嫁いだ田内千鶴子は、終戦、韓国動乱と時代の荒波に翻弄されながらも、過酷な運命に押し潰されることなく、孤児たちを守り抜いた。あまりの辛さに投げ出したくなるような時、彼女の支えとなったのは、彼女が骨身を惜しまず世話した孤児たちだった。

孤児達に笑顔を
 田内千鶴子が母に連れられ、生まれ故郷の高知を後にして、当時日本の植民地であった韓国全羅南道の木浦に渡ったのは7歳の時である。木浦は朝鮮総督府に勤務する父の勤務地だった。この田内家に突然不幸が襲った。千鶴子が18歳の時、父の徳治が病死したのである。母はるは助産婦をしながら、千鶴子と一緒に韓国に残ることにした。千鶴子が女学校を卒業し、木浦のキリスト教会で奉仕活動を始めた頃であった。

 その後、20歳で木浦にある女子学校の音楽教師に就任。24歳になったある日、千鶴子は音楽指導の恩師高尾益太郎先生に呼ばれた。「生き甲斐のある仕事をしてみないか」と言う。共生園という孤児院に数十名の孤児がいるが、子どもたちは笑わない。その子どもたちに笑顔を取り戻してあげてはくれないか、というのである。この申し出は、千鶴子にとって衝撃的であり、感動的なものであった。彼女は共生園を訪ねることにした。

尹園長と結婚
 共生園を訪れて、千鶴子は驚いた。施設のみすぼらしさは、想像をはるかに超えていた。施設とは名ばかりで、壁もふすまもない。30畳程度の部屋が一つあるだけ。そこに50人ほどの子どもたちがいて、園長が一人で子どもたちの世話をしていた。園長の名は尹致浩。周囲からは乞食大将と呼ばれていた。ここで、千鶴子は子どもたちに歌を教え始めた。もちろん無報酬である。しかし彼女の心は満たされていた。孤児たちに本当の親のように接する尹園長の姿に感動していたからである。

 2年ほど経ったある日、尹園長は千鶴子にプロポーズした。突然のことに驚きながらも、彼女は結婚の意思を固めていく。噂を聞いた周囲の日本人は嫌悪感をもって陰口をたたく中、母は違った。「結婚は人間と人間がするもの。天国では日本人も朝鮮人もありません」と言い切り、千鶴子の背中を押した。

 新婚の甘い夢とは、およそ無縁の生活が始まった。電気もガスもない生活。子どもたちは、裸足で出入りし、夜は雑魚寝状態。彼女は子どもたちに躾を教えることから始めることにした。顔や手を洗うことを教え、食事前の挨拶を教えていくのである。

終戦後の弾圧と韓国動乱
 第二次世界大戦が終了し、日本と韓国の立場が逆転。韓国人の日本人に対する鬱積した民族感情が一気に吹き出した。ほとんどの日本人が帰国する中、千鶴子はとどまる決断をした。夫との間にすでに二人の子どもがおり、三人目をお腹にかかえていたからである。それに孤児たちを見捨てるわけにはいかなかった。

 激しい弾圧が始まった。村人が集まって、尹を殺す計画が持ち上がった。日本人を妻にしているからだ。不安に震える千鶴子を「お母さんが日本人でも、僕たちのお母さんだ。誰一人、お母さんに手を出させない」と言って励ましたのは、孤児たちだった。村人らが押し寄せたときも、子どもたちが手に棒や石を持ち、盾となって叫んだ。「僕たちのお父さん、お母さんだ。僕たちも黙っていない」。泣きながら訴える子どもたちの姿に村人たちは圧倒され、引き上げていった。千鶴子は子どもたちを抱きしめながら泣いた。そして、この子らのために一生を捧げる決意をあらためて固めたのである。

 1950年6月15日、韓国動乱が勃発。南進した共産軍が釜山周辺を除き、韓国全土を制圧した。共生園にとって、最も深刻な事態であった。共産軍は、キリスト教徒と日本人を目の敵にしていたからである。

 共産軍が木浦市内に入ってきたのは7月の下旬。共生園の運動場に村人たちが集められた。指揮官が演説口調で叫びだし、いわゆる人民裁判が開かれた。やり玉に挙がったのが、尹致浩と千鶴子の二人。孤児救済という仮面のもとに人民から金銭を搾取したという。また日本人を妻とする親日反逆者という嫌疑だった。

 村役場に勤める一人の役人の弁護により、指揮官は、尹が人民委員長の役を承諾すれば、その罪を許そうと言った。尹園長は、子どもたちに食糧を与えること、罪のない人は一人も殺さないこと、この二つを条件に人民委員長を引き受けることにした。
 人民委員長としての尹の最初の仕事が与えられた。それは自分の妻を裁くことであった。人民委員長自らが、妻の弁論を開始した。彼女が日帝時代、周りの反対を押し切って結婚し、孤児たちのために献身的に努力してきたと述べ、「私は彼女を尊敬し、その愛に報いたいと思う」と語った。そして村人に向かい、「もし彼女が日本人だという理由だけで死刑にするのであれば、彼女を死刑にする前に、まず私を死刑にしてほしい」と締めくくった。村人は誰もが感動し、やがて拍手の輪が広がったという。二人の命は、ぎりぎりのところで保たれた。しかし、この時、命を絶たれていた方が幸せだったかもしれないと思わせるほど、その後の千鶴子には過酷な試練が待ちかまえていた。

夫の消息が絶たれた
 共産軍の支配はわずか2ヶ月にすぎなかった。マッカーサー率いる国連軍により戦局は逆転、共産軍は一斉に北に退却したからだ。共産軍から解放された市民の喜びは大きかった。しかし、人民委員長だった尹致浩は、共産軍に協力したというスパイ容疑で逮捕されてしまった。知り合いの軍人の尽力により、3ヶ月の拘禁から解放されたものの、尹はその2日後には食糧調達に光州(全羅南道)市に出かけたまま、行方不明になってしまったのである。衰弱して野垂れ死にしたのか、共産軍の残党に虐殺されたのか。千鶴子は不安で眠れぬ日々を過ごしながら、夫の帰りを待った。しかし何の消息もない。月日は無慈悲に流れるだけであった。
 園の食糧事情は深刻だった。女手一つで80人を越える孤児の世話には限界がある。悩んだ末、苦渋の決断をした。10歳以上になる孤児50名に自活を求めたのである。10歳未満の幼い孤児たちを守るためでもあった。物乞いでも、ガム売りでもして、何とか生き延びれば、いつの日にかまた会える。各自が生き残るための解散に、千鶴子も園児も抱き合って泣いた。講堂の床は涙でびしょぬれになったという。

 その日から、千鶴子は毎日、リヤカーを引いて町に出て、残飯をはじめ食べられそうなものは、何でももらい歩いた。その年が明けた元旦の朝、嬉しいことがあった。年長の子どもたちが、風呂敷包みをかかえて園を訪ねてきたのである。風呂敷には、ほかほかのもち米が入っていた。幼い子どもたちのために、食べるものも食べずに働いて準備したものだった。千鶴子は後に「あのご飯の味を、私は今も忘れられない」と語っている。

 夫が行方不明になって以来、あまりの大変さに、逃げ出してしまおうと思ったり、死への誘惑にかられたことも一度や二度ではなかった。そんな彼女を支えたのは、常に子どもたちだった。食べるものが何もない時に、子どもたちは率先して魚を釣りに海に飛び出していく。バケツいっぱいの魚を持ち帰り、「お母さん、これで今日の夕飯はできたね」と言って、無心に喜んでいる彼らの姿を見るにつけ、「私はひとりぽっちじゃない。この子どもたちがいる」と思い直して、心を奮い立たせるのであった。

 もう一つ、彼女を支えていたものは、夫にまた会える日へのささやかな希望だった。夫が戻った時、共生園を守り抜いた姿を見てもらいたかった。彼女は周囲に常々「園長が帰ってくるまで辛抱するのよ」と語った。まるで自分自身に言い聞かせるかのように。
 1963年に長年の彼女の苦労に報いて、韓国が文化勲章を授与したときも、「ただ、主人が始めた仕事を、留守中なんとか守ってきただけですから……」と応えるばかりだった。彼女の偽らざる気持ちだった。大袈裟なことは何もない。食糧が尽きればリヤカーを引いて街にくり出し、子どもが病気になるとおぶって病院を駆け回る。こうして十数年の歳月が過ぎただけなのである。

病気を押して
 勲章授与の2年後、彼女は肺ガンに倒れ、摘出手術を受けなければならなくなった。この時も彼女を助けたのは、園の出身者たちだった。彼らはみな、千鶴子の入院を知って、苦しい生活の中から、なけなしの金を集めて届けてくれたのである。以後、彼女が命を落とすまでの3年間は、病気を押して、日韓の間を往復し資金集めに奔走した。

 高熱に苦しみ、医者から入院を勧められもしたが、耳を貸そうとはしなかった。入院費が払えないからであり、たとえお金があっても、共生園の子どもたちの生活や教育費用に充てたいと考えていたからである。こんな無理がたたったせいか、肺ガンが再発し、入院を余儀なくされた。体は日に日に衰弱、視力障害まで引き起こしてしまった。

 1968年10月20日、千鶴子は木浦の共生園に戻った。せめて共生園の子どもたちに会わせてあげたいという配慮であった。彼女の意識はすでになくなっており、死期が迫っていた。10月31日、この日は千鶴子の56歳の誕生日。園内は祝いの準備でにぎやかだった。牧師による記念礼拝が終わり、牧師が眠り続ける千鶴子の頭に手を置き、祈り始めたちょうどそのときだった。まるでその瞬間を待っていたかのように、千鶴子は困苦に満ちたその生涯を閉じた。

 11月2日、木浦市長の申し出により市民葬が行われた。20人の園の出身者が千鶴子の棺を運び、懐かしい共生園の隅々を回った。園児たちは窓ガラスにへばりつくようにして泣いている。その後、棺は霊柩車に乗せられ、市民葬が行われる駅前広場に向かった。広場は3万人の人々で埋め尽くされていた。

 17歳になる園児が代表して哀悼の辞を述べた。「私たちは、あなたの愛を飢えた動物のように探し求めました。でも、お母さんのその愛を今どこで探せばいいのでしょう。お母さん!私たちはあなたが望まれたいい子どもたちになります」。涙をぬぐおうともせずに千鶴子に語りかける園児の声は、広場いっぱいに響き渡り、参加者の涙を誘った。

 語り尽くせない運命の荒波に翻弄されながらも、千鶴子は夫の事業を立派に守り抜き、3千名の孤児たちの母となった。今、千鶴子は韓半島に平和が訪れ、日韓両国が仲良くなる日を夢見ながら、韓国の地で両国を見守っている。


古い壊れたPCのなかには、仕事に関係する資料がかなり出てきた。
その中に、1989年に発生した放射線問題の資料もかなりあった。
(2011年3月の福島原発事故に遡ること、22年前のことだ)
当時わたしは工場の製造課長を勤めていた。

1991年(平成3年)6月6日、国からこの問題に関する対応方針が出された。
この通知の内容には、当時の国の放射線被ばくの基準も語られている。
この数値については、当時の科学技術庁の技官から、何度も何度も念を押された。
文章の最期の(注)の説明書きに・・・・・一般公衆の実効線量当量限度が示されている。
(注)目安とする0.14μGy/h以下のレベルは、その場に1年間365日居続けた時、
外部被ばくによる実効線量当量が一般公衆の実効線量当量限度である1mSv/年以下となるレベルである。

ということで、1mSv/年以下=0.11μSv/時間hr以下ということだった。
現在ニュ-スで出てくる単位では、0.11以下が基準だということだった。





 チタン鉱石問題に関する対応方針  

                               平成3年6月6日
                               科学技術庁
                               厚生省
                               通商産業省
                               労働省  

 チタン製造工場からの廃棄物の一部で通常より高いレベルの放射線が検出された本問題への対応については、科学技術庁、厚生省、通商産業省及び労働省の関係4省庁で協議し、平成2年9月7日に「チタン鉱石問題に関する基本的対応方針」を取りまとめた。この方針においては、当面の措置の実施について示したが、それ以後、工場、処分場についての詳細な調査を実施するとともに、それを踏まえて安全評価等を実施した。
 この結果、以下のことが明らかとなった。

① 工場、処分場の敷地境界では空間放射線量率はバックグラウンドレベル程度となっていること、排気、排水とも原子力施設に係る濃度限度を十分下回っていること等から、公衆の被ばく線量は一般公衆の実効線量当量限度である1mSv(ミリシーベルト)/年以下である。
② 工場、処分場の従業員の被ばく線量は、作業環境中の空間放射線量率等から評価した結果、一般公衆の実効線量当量限度である1mSv/年以下である。なお、鉱石を建屋に保管しており発じんしやすい環境にある工場の従業員を対象にホールボディカウンターによる計測を実施するとともに、各工場において従業員(退職者も含む。)等2,500人以上を対象に健康診断を実施したが、異常は認められなかった。
③ 過去の処分場については、通常想定されうる跡地利用の可能性を考慮しても安全上問題がない。
④ 今後の廃棄物の放射能レベルについては、使用鉱石の放射能レベルを低減すること等により、十分安全なレベルまで低減することが可能である。
 以上を踏まえ、今後とも安全性を十分維持するために本件に関する最終的措置の検討を行い、関係4省庁で協議を行った結果、この度、チタン鉱石問題に関する最終的措置として、「チタン鉱石問題に関する対応方針」を以下のとおり取りまとめた。

1. 講ずるべき措置等
(1)工場
① 空間放射線量率の測定を定期的に実施し、記録すること。
② 敷地境界において通常のバックグラウンドレベル程度に保つとともに、通常のバックグラウンドレベル程度を超える場所については、人がみだりに立ち入らないようにすること。
③ 鉱石、廃棄物について、飛散・流出防止、吸入防止のための措置を講ずること(輸送中も含む。)。
④ 敷地境界における大気、排水について、その放射能濃度が法令(「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」に基づく規則及び告示)で定める濃度限度を下回っていることを、定期的に確認すること。
⑤ 作業環境が法令(電離放射線障害防止規則)に定める基準を下回っていることを、定期的に確認すること。
⑥ 鉱石、廃棄物について空間放射線量率の測定で通常のレベルより高い値が測定された場合には、そのつど放射能濃度の測定を実施し、そのレベルが法令(電離放射線障害防止規則)で定める基準を下回っていることを確認すること。
⑦ 使用鉱石については、輸入のつど空間放射線量率等の測定を実施し、その放射能レベル・使用量を管理し、廃棄物の放射能レベルをできるだけ低くするよう努めること。
⑧ 工場外に持ち出す廃棄物は、廃棄物に起因する空間放射線量率の目安が、0.14μGy(マイクログレイ)/h以下であるものに限ること。このため、持ち出す前に空間放射線量率の測定を行い、これを確認し、記録すること。(注)

(2)旧処分場(過去にチタン製造工場から廃棄物が搬入された処分場であって、現在埋立て中のものを含む。)
① 地方公共団体は、廃棄物の流出のないこと、跡地利用の状況等旧処分場の状況を把握し、特に、大規模に跡地利用される場合には、科学技術庁及び厚生省に事前に通知すること。
② 事業者は、埋立てが終了している旧処分場で覆土が50cmに満たない場所は、跡地利用の可能性等を考慮しつつ、原則として50cm程度の覆土をすること。
③ 現在埋立て中の旧処分場で、通常のバックグラウンドレベルを超える場所がある場合には、暫定的に
(1)②及び③に準じた措置を講じつつ、可能な段階で早急に覆土すること。

(3)今後廃棄物を搬入する処分場
 今後、廃棄物に起因する空間放射線量率が0.14μGy/h以下の廃棄物を搬入する処分場については、「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」に基づき、適切に処分すること。

2. 測定結果等の届出
 事業者が、上記の測定及び確認等を実施したときは、定期的にその結果を地方公共団体を経て関係4省庁に届け出ること。

(注)目安とする0.14μGy/h以下のレベルは、その場に1年間365日居続けた時、外部被ばくによる実効線量当量が一般公衆の実効線量当量限度である1mSv/年以下となるレベルである。

三上山2017-1

わ~なかなか綺麗やないですか♪

富士川からみる富士山でしょうか?

えっ、ぜんぜん違いますかwwwww。

バレバレですかね、ふ~

野洲川からみる近江富士

ハイハイ これが正解です。

雪景色で寒そうですね、七巻き半のマフラ-はどうかな~

あっ、ためしに「七巻き半」で検索したらでてきました。

トッチ-ちゃん、見えるかな~これが我が故郷の三上山


先週1/14の大雪と昨日の大雪で家の周りの花木に被害がでた。
ここ数年、たいした積雪がなかったので油断していたこともあるし
花木が成長して折れやすい枝葉が増えてきたことも原因だろう。
ヒメイチゴノキ
ハナズオウ
ブル-ベリ-2本
そして驚いたのは、ナニワイバラの一部が倒れるというか、地面のほうへへちゃげてしまった。
このナニワイバラは毎年これ以上大きくならないようになんとかせねばという気持ちにさせていた。
なにせ放任していた結果、横15m、奥行5mほどに勢力をのばしていた。
大雪のおかげでお尻を叩かれる結果になりそうだが、あの強烈な棘の餌食にならないように・・・
要注意。


OB会に向けて覚書
①今年度のOB会は、新年度4月に計画すること
②日時内容連絡は2月10日までに確認し、場所の予約を済ませておく
③OB会での資料は事前に総務課のチェックを得ること
④役員体制は1月中に根回ししておくこと

今朝はかなり冷え込んで、外の水道栓は昼前すぎまで凍結していた。
庭のホンモロコの生簀は終日氷が張ったままで、底の水温はほぼ0℃だった。
明日の朝の予報はマイナス8℃ということで今日と同じぐらいになっている。

きょうは午後から会社のOBの幹事会があった。
毎年春に開かれるOB会の打ち合わせが目的だったが、総務課が作成したOB名簿をみると
昨年3名の先輩がお亡くなりになっていた。訃報の連絡をいただいた方は1名だったので驚いたが
いずれも家族葬をされたらしい。いま、冠婚葬祭の形もどんどん変化しているようだ。



知り合いの花友さんがブログのなかで不誠実な形で非難されて苦境にある。
インタ-ネットが普及してSNSやブログが普及すると自分の趣味を深めたり、知識を増やしたり、
日記やメモがわりに記録を残したり、前向きな気持ちでITの世界に足をいれる。
そして他の人のブログを眺めていると自分もブログを発信したくなるものだ。
ブログを書き趣味を通じて知り合いを増やし、楽しい会話を広げたいし、
自分の考えを発信してほかの人の意見を聞いてみたいと思う。
しかし、個人情報の漏洩を気遣いながら自分の情報を不特定多数の世界に向かうのだから
そこはおのずと限界のある世界にならざるを得ない。
それでも、それがぎりぎり成立しているのはHNを使った偽名のバ-チャルだからだろう。
そして、本当の自分が表に出でないということは、好き勝手な言いたい放題も起こる。
限界のある世界とは、厳密なル-ルを設定しないと成立しない狭い世界だということだろう。
ものごとの多くは広く浅くか狭く深くのどちらかを目安に進めることになる。
ブログの交信で起こる揉め事はブログの性質上、ブログを通じて当事者だけで解決できない場合が多い。
秘密にすべき信書を公表して不特定多数の人にオ-プンにしているのだから不特定多数の人から様々な不特定な意見がでる。
ブログを発信する人は、そうした意見を受け取って、自分の立場を明確にする必要がある。それしかできない。
人の世界、意見の相違があって当然だし、それがブログの値打ちだと思う。

わたしは、自分のブログに自分の好き勝手に記録すべきだと思うことを(自分に向かって)書いている。
中身はといえば極めて個人的な、時としてつまらないことを書いている。なので、コメントもなくブログの内容でトラブルは起こらない。
ブログでのトラブルはコメントを介して起こることが多い。これは現象として大切なことだろう。
コメントは見かけ上は対話の一節ように感じるがそうではない。文字に残る記録だ。
だから、コメントの書き手は読み手のことをよくよく意識して書くことだろう。
しいていうなら、本文に対するコメンテ-タ-だという解説者の意気込みで意見を書く事だろう。

とにかく
相手に説明が通じないことは苦痛以外のなにものでもないが、自分の立場や気持ちを明確に宣言すること、
それ以外に良い方法はないと思う。

「待った」ができたらラッキ-だけど
喧嘩ならば一歩譲って両成敗、
辛い苦境が未来への糧ならば乗り越え、
悪意ならば回避し狂犬には近づかず
どちらが正しいかと争い続けるより、次に何をすべきかを知ろう
それが人の営みであるように思う

午後から本格的な雪となってきた。

ホンモロコの飼育は、この厳寒期は特に重要な作業はないが、生簀の水温や積雪や凍結の記録を付けている。
昨日、滋賀県東近江市の養殖業者から電話をいただいて、これから春先の作業についてのアドバイスをいただいた。
この養殖業者さんは休耕田を利用して年間40万匹を養殖しておられ、特に稚魚の餌についてよくご存じなのです。
ちなみに今年の親魚は絶滅を防ぐために三か所(水路、田んぼの池、ビニル生簀)に分けて飼育しているというのも
この方からのご意見による。
1月のきょうまでの水温は、三か所とも0℃~5℃で餌はまったく食べなくて、底の隠れ家でじっとしている。
これから産卵までの作業
①2月末まで・・・・田んぼの生簀の底さらえ、底を平にならすとともに給水、排水パイプの整備をする
②3月上旬・・・3/10前後に田んぼの生簀に消石灰を散布する
③3月中旬・・・3/20頃に田んぼの生簀に鶏糞を撒いてひたひた程度に冠水しておく
④3月末・・・3/30頃に田んぼの生簀に正規の水位まで給水する
⑤各生簀の水温が10℃を越えてきたら本格的に給餌を始める
⑥ビニル生簀の水温が14℃を越えてきたらビニル生簀に親魚を集める、丁寧に生簀の水質管理を行う
⑦4月になったら産卵床を準備しておく

①はすでに完了している。排水パイプは水漏れの確認を済ませていなが水張」りをしないと漏れが分からないので
水張りをはじめたときにチェック手直しの必要がある。
ホンモロコの養殖は、いまはまだ趣味の段階で、家内は生き物を扱うことは何かと手も気も掛かるので本格化しないで
ほしいらしい。趣味の段階ということは半分お遊びということになるが、養殖技術はしっかり確立して、人に教えられるように
はしておきたいというのがわたしの希望。


プロちゃん2006

壊れたPCから上手くHDDを取り出すと中身を見ることができる。
我が家のPC、過去に原因不明で突然起動しなくなったことが2回あった。
最初の故障は1999年で二回目は2010年、いずれの時も仕方なく新しいのを購入した。
2010年以降もやばいことがあったが、なんとか壊れずにきた。
一回目に故障したPCには会社での仕事の関係の記録が相当多かったが
二回目に故障したPCには、趣味というか花関係など生活の断片がほとんどだった。
その中には嬉しいことに2012年に旅立ったプロちゃんの写真もたくさん出てきた。
この写真は2006年、プロちゃん二歳ぐらいのころ、多分、花のSNSなどに張り付けていたのだろう。

犬を飼うことが夢の一つだったところ、このプロちゃんが我が家へ来た。生後4か月だった。
ところが五歳になったころに酷い痙攣をおこした。獣医さんからは癲癇か脳腫瘍かもしれないといわれた。
投薬治療をしていたが、その後、月一ぐらいで痙攣を起こしていた。痙攣はだいたい1分ぐらいで収まっていた。
痙攣が起こったらそのまま様子を見てくださいということだったが、わたしがいるときは抱きしめていた。
2012年になると、急に痙攣の数と時間や回数も増えてきた。
いま思うと動物病院からいただいた薬の調合がどこかで間違っていた気がする。
2012年の4月ごろから今のPCでプロちゃんの病状日記をつけるようなった。
痙攣は夜に起こることが多かったので、休みの日の前は一晩中朝まで胸に抱いて過ごすことも何日かあった。
腕の中で痙攣すると排便したりおしっこしたりしたが、そんなことよりもなんとか痙攣を和らげてやりたい一心だった。
2012年7月後ろ足を骨折して手術を受けることになった。
その日、家内が通勤途中に病院に犬を預けて、わたしが仕事帰りに迎えに行く予定だった。
社内会議のあとデスクのPCに家内からメ-ルが入っていた。
先生から連絡いただいて・・・プロちゃん死んだらしいの・・・・
翌日、家族全員でプロちゃんの葬式をして、裏山の景色のいいところに埋めて石を置いてお墓にした。
プロちゃんは七歳という短命だったが、いつもアイコンタクトをとるワンちゃんだった。

その後、新しいワンちゃんが二匹も我が家にやってきたが、家内の携帯の待ち受け写真はずっとプロちゃんだった。
今年のお正月に気が付いたけど、家内の携帯をのぞき込んだら、孫ふたりが並んだ写真になっていた。
プロちゃんの写真、入れ違いにお父さんおところへ戻ってきたようだなぁ。

2017-1-21りく2

りくちゃんも雪が大好きです。

このブログは休止状態にありますが、今年はワン公と畑とホンモロコのことを中心に記録を残してゆこうと思います。
こちらに母が来てから、畑で野菜を作って欲しいようなことになってきたし、ホンモロコの養殖技術もさらにレベルアップする必要があります。

そして重要なことは、わたしたちの生活に一番関係のある政治への関心です。わたしは地域の役員をしていますが地域社会も個人生活も政治に左右されているのに関心が低い。少なくともわたしたちの税金がどのように使われているか、わたしたちの生活を守り便利になるように使われているのか・・・・関心を持たざるを得ないことです。これに関しては右も左もありません。たとえば、沖縄県民の意向を自公政権が無視していることを批判している右の人も多い。ただガムシャラに自分の立場に固執する人もいますが、人間には寿命があり、この歳を重ねることはまさに普遍的なことで、人が歳をとるとどうなるのかということを知らないといけない。ちなみに、わたしたちの財産は、富ではなく心と遺伝子だというのが今のわたしの想い

パソコンの開発当初は電子計算機と呼んでいた。その後、人類は電子計算機を進化させ生活の片腕として利用してきたが、あくまでも機械ということで、ぜったいに心や遺伝子の仕組みを組み込んではならない。心とは生命のもつ生物としての判断力というか感情のようなもので、遺伝子は無機物の集合体でありながらある順番に並んだときにのみ動き出すパスワ-ドに近いものだといえるだろう。

ところで、敵対意識が持続すると相手を倒すことに多くの労力を掛けることになる。歴史の中はそうした争いがいたるところに存在している。そして、後世の者は客観的な第三者でありながら、そういう立場に立てないことも多い。
江戸時代の人で、今の広島で育った人に頼山陽という人がいた。彼は天才と呼ばれてはいたが性格的に少し常軌を逸するところがあったようで諸国を流浪した。彼の有名な詩に「不識庵機山を撃つの図に題す」というのがある。不識庵というのは上杉謙信の法名で、機山というのは武田信玄のことだ。


「不識庵機山を撃つの図に題す」  (頼山陽 作)          
鞭聲粛々夜河を過る(べんせいしゅくしゅくよるかわをわたる)
暁に見る千兵の大牙を擁するを(あかつきにみる  せんぺいたいがをようするを)
遺恨十年一剣を磨き(いこんじゅうねん いっけんをみがき)
流星光底長蛇を逸す(りゅうせいこうていちょうだをいっす)

意味は・・・・
上杉謙信の軍はひっそりと鞭音も立てない様にして、夜の内に千曲川を渡って川中島の敵陣に攻め寄せた。
武田側は明け方の霧の晴れ間に上杉方大軍が大将の旗を中心に守りながら迫ってくるのを見つけた。
謙信はこの十年のあいだ一ふりの剣を研ぎ磨いて、その機会を待ったのであるが、
流星のようにうち下ろす刃の下ではあったが、ついに強敵信玄をとり逃がしたのは無念至極なことであった。

頼山陽は、200年ほど前の軍の図を眺めながら、この戦いでは謙信は信玄を討ちとることができなかったが、
その心中を察すると、誠に同情にたえないということだったのだろう。

2017-1-21マロン2

今朝は薄っすら薄化粧です。いえいえ、化粧はわたしではありません。
雪景色を見るとワンちゃんも興奮するようです。今朝の気温はマイナス2℃です。

2017-1-15積雪2


今朝の6時すぎの気温はマイナス7℃だった。
先日の積雪が半分溶けて氷になっていてその上を歩くことができた。

当地では1月15日から16日にかけてかなり積雪があった。
わが家の庭の観測では20センチぐらい積もった。
数年に一度どか雪があるが、あるといっても北陸の豪雪地帯の皆さんからみればなんだ~という程度だろう。

家の前の坂道をデイサ-ビスの車が立ち往生してはいけないと16日の朝は雪かきをした。
平スコで道の両脇に雪をどかせたが、けっこうよい運動になった。
お昼前、気が付くと、裏庭のヒメイチゴノ木が倒れていた。背丈が3メ-トルになっていたが幹が変に傾いていたので積もった雪の重みに耐えられなかったようだ。
仕方がないので、幹をばっさりと半分ぐらいに切って真っ直ぐに立て直して支柱で補強した。
助かるかどうかは分からないが、この家の庭づくりの最初に植えた木々のひとつなので助かってほしいと思う。
ドウダンツツジのような初冬にベル型の小さなを花をさかせて、およそ一年かけて見が熟する。

雪の朝20170115

今朝の気温はマイナス4℃ 小雪で積雪8センチほど。
犬を放してやると歌の文句通りに駆け回って嬉しそう。
きょうは家でのんびり過ごそう。

年明け早々の、1月8日、アメリカのケリ-国務長官が、国際テロ組織ISISに関して驚愕すべき証言をおこなったというニュ-スが世界を驚かせています。世界を恐怖に陥れているISはアメリカの支援を受けて組織化していたことが事実ならば、許しがたいことです。

WEBのニュ-スによると・・・・・

アメリカのケリー国務長官が、「アメリカは、シリアのアサド政権を打倒するためにテロ組織ISISを結成した」との異例の発言を行いました。

英語のインターネットサイト、オフ・ガーディアンによりますと、ケリー長官は、シリアにおけるアメリカの主要な目的がアサド政権の打倒であるとし、「アメリカ政府は、この目的を果たすためにISISの結成を許可した」と語りました。

また、「アメリカは、ISISの結成やこの組織の権力増大により、シリアのアサド大統領にアメリカの望む外交的な解決手段を見出させ、退陣に追い込むことを希望していた」とし、「アメリカは、この2つの目的達成のために、ISISの一部のメンバーを武装化した」と述べています。

さらに、「アメリカ政府は、ISISがいつでもより強大化することを視野に入れていた」とし、「アメリカは、シリア政府がロシアに軍事支援を依頼するとは予想していなかった」としました。

この報告によりますと、シリアの反体制派グループの代表者との会談における、ケリー長官のこの談話の音声ファイルは、これ以前にCNNやアメリカの新聞ニューヨーク・タイムズに公開されていましたが、アメリカのISIS支援に関するおよそ35分間の部分は、アメリカのメディアにより検閲、削除されていました。
プロフィール

えんてつ

Author:えんてつ
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兵庫県の中山間地域に夫婦で住んでいます。
2015年3月に現役リタイヤ-しました。
これから先は未知の世界です。

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